だいすん の かんげきdiary

宝塚歌劇ファン歴3年目の初心者ですが、観劇の感想や思い出などを、徒然と書いていきたいと思います

バッディのハニーハント~上田久美子先生講演会に参加して その2(終)~

ハロウィンから一夜明け、今日から11月。

ジャック・オ・ランタンは一晩で片付けられ、街は早くもクリスマス商戦に向けて動き出している雰囲気でムンムンです。

資本主義、ここに極まれり…!だいすんでございます。

 

さて、今日は後日更新と予告していた、上田久美子先生講演会の感想の続きを書いていこうと思います。もう1週間以上過ぎてしまったので、やや時期を逸している感はありますが、気にせず、臆さず、堂々と、やっていこうと思います。

 

 

前回の記事では、講演の第一部の内容を『BADDY』と絡めながら書いていました。ざっくりひと言でまとめると現代社会のこんなところがヤバイ」という話でした。あまりにも悪の排除にやっきになった結果、みんなの悪の基準だだ下がりだよね。しかも、本当にヤバイ悪、人類ピンチ系の悪には気づいてないよね、というような話でした。

※あまりにもフランクかつ適当すぎるまとめなので、詳しくは前回記事をご覧ください。

 

 

 

講演の第二部では、そんなヤバメな社会において演劇や文学、映画などの「物語」がどんな役割を果たすべきか、といったことが考察されていました。 

 

 

最近の「物語」は「アトラクション化している」と、上田先生は指摘していました。

アトラクション化した物語とは、『見ている間は終始、快感のツボを押されているよう』に楽しく、『ノリの良い音楽を聞いて体がついリズムを取ってしまうような生理的な楽しさ』を感じさせるもので、まるで遊園地のアトラクションに乗った後のような「楽しかった」という余韻をただただ感じさせる作品のことだそうです。飽きのこないように良く作られている反面、『文学的な物語構造はなくなり、ストーリーに込められたテーマを読み取らせることよりも、断片的な「萌え」というリビドー刺激剤をコラージュした理屈でなく生理で人を興奮させる』ようなものであると、講演では述べられていました*1

※ちなみに「リビドー」とは、人間の無意識にひそむ快楽を追求しちゃうエネルギーのことを言います。『エリザベート』でもおなじみオーストリア生まれの精神科医フロイトさんが名付けました。

私個人としては、娯楽とは読んで字のごとく「楽しむ」ための物なので、観ていて飽きないアトラクション化した作品=「ダメ!絶対!」とは思いません。

ただせっかくなら、受身的に自分のリビドーを刺激されるに任しておくよりは、作品に込められた意味を考えたり、自分で意味を見出したりしたいなぁとも思います。それは「生理的な楽しみ」とはまた違う、「発見する/考える 楽しみ」とも言えるかもしれません。

加えて、文化の発展や存続を考えると、アトラクション的な物語ばかりが世に出回ってしまうことの怖さも感じます。講演では、SNSの普及等により、万人受けするような作品がますます求められるようになり、また大衆の側も、第一部で述べたように『痛みや悪への耐性がなくなったこと』で、『人間の傷や「どうしようもなさ」を味わいとするような物語の深み』を理解しにくくなり、『快楽至上主義的』な作品を求める傾向があるのでは、と指摘されていました。

快楽的な刺激には遅かれ早かれ飽きや慣れがおとずれます。アトラクション化した作品の与えてくれる「生理的な楽しみ」もそう長くは続かず、いわゆる息の長い作品になりにくいかもしれません。次の時代に語り継がれ残される「文化」になる前に、消費され尽くしてしまう可能性が高いのです。

 

 

宝塚歌劇団は、エンタテイメント産業のひとつです。ショーやレビューなどはまさにアトラクションのようにくり広げられ、私もリビドーを刺激されながら日々観劇しております。ただ、宝塚歌劇団は来年105周年を迎えるエンタテインメントでもあります。大衆に楽しさをもたらしつつも、その独自の魅力から単なる娯楽・アトラクションとして消費され尽くすことなく存続してきた宝塚は、もはやひとつの大衆芸能文化と言えるかもしれません。

上田先生は、そんな文化を継承し発展させるべき座付き演出家の一人として、今の世の中に対して物語の果たす役割は、次の3つにあると言っています。

 

  • 共感の拡張

ここでいう共感とは『登場人物と一体化する』ことではなく、『自分の人類としての心を広げていく』ことだと述べられています。「分かる分かる!」とうなずくことだけが共感ではないのです。違う世界の価値観に触れることで心を広げていくこともまた共感なのです。ということだと思います。

『BADDY』では、例えば麗しの月城かなとさんが演じられたポッキー巡査に、この共感の拡張をみることができます。真面目でピュアホワイトだったポッキーは、バッディ達を「悪」だとみなしていました。物語の終盤、ひ弱だった彼は一転、自らの信念を貫く心の強さを見せて息絶えます。おそらく、全く「共感」できないバッディに捕まりアジトで過ごした日々の中で、これまでとは全く違う価値観の世界に触れたこと、「こんな考え方もあるんだ」「こんな人もいるんだ」と心の幅が広がったことが、彼の人間としての成長につながったのでしょう。

 

  • 「痛み」の肯定

物語の世界で『描かれた「痛み」に触れ、知っておく』と、現実の世界で自分にふりかかってきた「痛み」に対しても『あくまで一つの経験だと客観視』できる、と上田先生は述べています。

例えば、失恋の痛手に苦しむ時に、クールと王女の悲恋を思い浮かべられたら…。例えば、嫁と姑の板挟みにあう時に、『エリザベート』のフランツを思い浮かべられたら…。味わう苦しみの重さは変わりませんが、昔から人間が感じてきた感情なのだと、自分の苦しみを客観的に考えられることで、人は苦しみに意味を見出すことができるのです。

 

  • 「悪」の可視化

「悪」とお付き合いする一番良い方法は、その存在を認めることなのかもしれません。

人間は『本来は野生の生き物である』のに『悪の衝動に蓋をして不自然に心を押さえ込んだ状態で生きている』のでは、と上田先生は指摘します。物語の世界で「悪」を描き出すことは、そうして押さえ込んでいる衝動に『日を当て』『ホコリを叩』くことであるとも。

自分の中の悪を認めないことは、自分の人間性を否定することなのかもしれません。

怒るし、妬むし、怠けるし、ズルいし、酷いし、恩知らず。だって、にんげんだもの

物語の世界だからこそ、そうした人間の「悪」の部分を存分に描ききることができるし、そうして観る人の「悪」の天日干しができるのかもしれません。

『BADDY』をはじめ、今後「悪」(不倫とかいろいろ含む)を描いた数々の宝塚作品を観るときには、「悪の可視化だから、これを観るのは大事なことなの!」と自分や周りの人に弁明しながら、大手を振って観ようと思います。

 

 

長々と書いてしまいました。

ここまでお読みくださって、本当にありがとうございます。

今後はこうして演出家の先生の話をライブで聞ける機会はそうそう無いと思うので、備忘録的に、講演の内容をまとめたいと思い記事を書きました。講演を聞いていくつか疑問に思う点もあるにはあったのですが、今回はその点についてあまり述べていません。

主観ダダ混じりのレポートになったので、講演に参加された方には「ここちょっと違う!」などいろいろツッコミどころもあるかもしれません。また教えてください。

また次回からは、リビドーたれ流し状態の平常運転で、つれづれと観劇の思い出を書いていこうと思います。

*1:上記『』内は講演レジュメより引用。以下同様