だいすん の かんげきdiary

宝塚歌劇ファン歴3年目の初心者ですが、観劇の感想や思い出などを、徒然と書いていきたいと思います

私の心の中のバッディ ~上田久美子先生講演会に参加して その1~

朝夕に冬の訪れを感じる今日このごろ…

皆さま、いかがお過ごしでございましょうか。

だいすんでございます。

 

 

先日、京都大学にて開催された『第72回京都大学未来フォーラム』に参加してまいりました。

『BADDY』(抜粋)をその演出家とともに見るという超絶レア体験から開幕した、笑いあり、思索ありの、充実の1時間半でした。

 

今回は、私なりの解釈で、講演の内容を『BADDY』と関連づけながら述べていくことで、講演のエッセンスをお伝えできたらと思い、記事をしたためました。

私なりの理解ゆえの曲解誤解があるかと思いますが、「文章に起こす」「話す」という行為は、つねに言葉がひとり歩きしてしまうリスクをはらんでいます。

上田久美子先生 → だいすん → みなさまと、3者の伝言ゲームの末にお読みになる情報ですので、私の記事=上田先生が講演で述べたこと、ではございませんこと、ご承知おきのうえでお読みいただけますと幸いです。

長くなってしまったので、今回は講演の第1部に基づいたレポートとなっています。

なんだかいつになく言い訳がましい導入ですが、なんだか他人のふんどしで相撲をとってる感がするので、ちょっと弁明しておきたい気分になったのです。スミマセン。

 

 

ピースフルプラネット・地球。そこは、悪いことなど何一つ起こらない、平和なユートピア。喫煙や飲酒など、人間にとって害悪となることは禁じられ、喧嘩も戦争も、核戦争も受験戦争も核家族化も、問題となることはなにもない世界です。害悪の芽はグッディ捜査官が摘み取り、人々は天国に行くことだけを目指して生きています。

ピースフルプラネットは極端な例ですが、講演を聞いて、現代社会の象徴であると感じました。

経済が発展し日々の生活が安定するなかで、「悪い」ことは私たちの周りから次第に消え去ってきています。害悪の芽が現れると、たちまちSNSなどを介して現実社会のグッディ捜査官たちが批判・炎上させ、迅速に摘みとっていくのです。

こうしたピースフルプラネット化の傾向は良い面もありますが、一方で怖い面もあります。それは、あまりにもクリーンな社会であるが故に、そこで過ごす人たちの「悪」の基準がどんどんと下がっていってしまうことです。

『BADDY』では、食い逃げが逮捕案件になるのはもちろんのこと、犬も食わない夫婦喧嘩ですら、立ちどころにグッディ捜査官に制止されています。おそらくピースフルプラネットでは、戦争→殺人→強盗→…と悪を成敗していくごとに、悪の基準が「喧嘩」レベルまで下がっていったのでしょう。グッディ捜査官が「グッディ=善いもの」でいるためには、その反対となる「悪」の存在が必要不可欠です。世の中の悪事がひとつ残らず消えてしまったら、グッディは何に対して「善い」と言い切れるでしょうか。自分の「正しさ」を主張するのに誰かの「間違い」を指摘するのと同様、『善と悪』は抱き合わなくてはならない、ニコイチの存在なのです。

 

グッディ捜査官は、バッディ達が月から襲来すると、これぞ悪!とばかりに必死になって逮捕を試みます。そんなバッディが犯した悪事は、スイートハート様の歌によると「駐車違反」と「食い逃げ」。スケール小さすぎると言われてもやむを得ません。

そんなスケール小さめの悪を追うグッディ捜査官の背景で、クリーンを謳う女王様は、ビッグシアターバンクの頭取と何やら怪しげな取引を交わします。「地獄の沙汰も 天国の沙汰もお金次第なの」と言ってのける女王様には、汚職や企業との癒着・・・なにか巨悪の匂いをプンプンと感じます。ですが、グッディはその悪には気づかず、目の前にある小さな悪だけを必死になって成敗しようとするのです。

現代社会にも、これと似た構図があります。

社会のクリーン化が進み「悪」の基準が下がったこと、加えて、SNSなどの普及により世の中のグッディ捜査官たちが情報や意見を発信しやすくなったことにより、身の回りの小さな悪は「不謹慎」だとか「傷ついた」「私は傷ついていないが傷つく人もいるだろう」と徹底的に成敗されます。

しかし、一方で本当の悪や問題(講演では、サイバー空間での詐欺や盗聴盗撮、気候変動や経済問題などが例として挙げられていました)がやり玉に挙げられることはほとんどありません。テレビでも、そうした問題について論じるよりも、芸能界のスキャンダルの方が取り沙汰されている感があります。

また私たち市民も、大きな問題はどこか対岸の火事というか、あまりにも怖すぎる問題なのでリアリティがないのか、考えないようにしているのか、どこかのお偉いさんが考えてくれると思っているのか、日々の生活が大変でそれどころではないのか・・・あまり非難することもなく、臭いものには蓋をして、怖いものには目を閉じて、身近な悪叩きに終始してしまっているような気もします。

 

『BADDY』では、幸いにも(?)バッディ達大悪党が大挙して押し寄せてくれて、ピースフルプラネットの住人に革命的な意識の変化がおとずれました。

誰かを憎いと思えるから、誰かを愛する気持ちがよりくっきりと浮かびあがること。時として憎むべき相手を愛してしまうこともあること。許されざる恋の苦悩があること。裏切りを知り自分の中の怒りと愛に気づくこと。

そのどれもが、無菌室状態のピースフルプラネットでは知り得なかったものでした。痛みを伴うリアルな「悪」との出会いが無くては、憎しみや怒りなど、自分の内に秘めた「悪い感情」に気づくこともなかったでしょう。自分の中の悪を認識してはじめて、グッディは「生きている」と感じ、生々しい人間としての生を実感できたのです。

 

 

 

では、私たちの現実社会にバッディは現れてくれるでしょうか?

望遠鏡で月を眺めていたら、宇宙服に身を包んだ彼が来てくれるでしょうか?

私たちは私たちの「バッディ」を、自分で見つけ出さなくてはいけないかもしれません。

 

 

 

明日(以降)は、第2部に基づいたレポートがかけたらいいなと思います。