だいすん の かんげきdiary

宝塚歌劇ファン歴3年目の初心者ですが、観劇の感想や思い出などを、徒然と書いていきたいと思います

雪組公演『星逢一夜』観劇レポート その①

今晩の月は、「十六夜月(いざよいづき)」と言うそうですね。
古語で「いざよう」とは「ためらう」という意味だそうで、中秋の名月の翌晩は月の出が1時間ほど遅くなることが由来だそうです。

「お月様が出てくるのをためらってるんだ(^.^)」と考えるなんて、昔の人はすごくロマンティックですね。


娯楽が現在に比べてずっと少なかった昔は、夜に星や月を眺めることも、立派な娯楽のひとつだったんですね。

現在、東京宝塚大劇場で公演中の雪組公演『星逢一夜』も、そんな夜空や星にまつわるお話しでした。

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この作品を通して私が痛切に感じたのは、「社会には、目には見えない色々な境界線が張り巡らされている」ということと、「境界線を越えようとする人の姿に人は感動を覚える」ということでした。


劇中に出てくる境界線には、種々様々なものがあります。
藩の境界線(水泥棒のくだり等)、世代の境界線、嫡子とそうでない者の境界線、身分の境界線。

劇中でとりわけ明瞭に描かれているのは、身分の境界線だと思います。

武士である紀之介と、農民である泉と源太との間には、士・農・工・商の身分制度社会の中で、絶対に越えられない壁がありました。

出会った頃には「社会の外側」にいたと言える3人。(紀之介は側室の子どもで跡継ぎでもなく、天野家の中でも爪弾き的な存在でしたし、泉と源太も農村の中で労働力として働くにはまだ幼かったと思います)
だから、大人の社会にある境界線の影響もさほど受けず、「お父さんを殺した殿様の息子」という恨む気持ちはあっても、気持ちの問題もして乗り越え仲良くなることができたのだと思います。

しかし、時が過ぎ立派な青年となり、江戸城への出仕や結婚という形でそれぞれが大人社会へ入って以降は、社会の一員として分相応に振る舞うべきを知り、それに伴って社会に存在する境界線の存在にも気づいてきます。
(紀之介と再会した源太が、思わず昔のように話しかけてしまうけれど、紀之介がもはや殿様であることに気づいて言い直すシーンは、まさに源太が殿様-農民という境界線を自覚した場面だと思いました)


紀之介、泉、源太がこの境界線に気づき、乗り越えようともがき出したことをきっかけに、物語は終わりに向けて大きく動き出します。
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観劇レポートその②に続きます……