だいすん の かんげきdiary

宝塚歌劇ファン歴3年目の初心者ですが、観劇の感想や思い出などを、徒然と書いていきたいと思います

辛く、厳しく、ややこしく 〜ジェンヌもつらいよ〜

ご無沙汰しております。だいすんでございます。

最近はもっぱらTwitterばかりで、すっかりブログがお留守になっていました。

今回は、ここ最近の宝塚やそれにまつわるエトセトラについて、なにかと思うところがありましたので、140文字には収めきれない心のうちをしたためようと思います。

突然ですが、この世の中は、清くも、正しくも、美しくもありません。 新聞やテレビでは、連日、事件や事故、欺瞞や不正が報じられています。

貧困、差別、戦争、ワンオペ育児、老老介護ブラック企業パワハラ、セクハラ・・・・・・

社会には解決しきれない問題が山積みになっていて、SNSでは色々な考えを持つ人が声高に意見を叫んでいます。

子どもの頃に夢見ていたような「バラ色の人生」なんてどこにもなくて、会社に行っても、学校に行っても、家庭にいても、楽しいことなんてごく僅か。辛かったり苦しかったりすることの方が多いような気がします。

「清さ」「正しさ」「美しさ」「努力はきっと報われる」「正義は必ず勝つ」

そんなものはすべて、厳しい現実の前では無力です。

けれど、そんな世間知らずの乙女じみた幻想を、モットーに掲げている人々がいます。 それが、タカラジェンヌです。

彼女たちが生きているのは芸能の世界。 一見華やかに見える世界ですが、私は芸能界というところは、この社会の縮図みたいなものだと思っています。清廉潔白で、希望に満ちあふれた夢のような世界などではなく、色々な人の思いや欲望、策略が渦巻いていても全く不思議ではない世界だと。 (もちろん、芸能界に入ったことはないので実際は分かりませんが)

ましてや、未婚の女性ばかりが集う集団です。 何も女性に限ったことではありませんが、集団になると人間関係の「ややこしや」な出来事っていっぱいありますよね。身近な集団(たとえば、クラス、会社の部署、ママ友関係など)を思い返してみても・・・・・・そりゃあ色々なことがあるだろうと思います。ジェンヌだって人間だもの。「ややこしや」なことは色々あるだろうことは、容易に想像できます。

私がタカラジェンヌを見て感動するのは、彼女たちが「辛く、厳しく、ややこしく」というホンネの部分を(少なくとも大多数のファンや観客たちには)隠して、「清く、正しく、美しく」というタテマエを貫き通してくれるところにあります。

ここでもう少し詳しく、宝塚歌劇団という世界の「辛く、厳しい」部分を見ていきましょう。

宝塚歌劇団は、読んで字のごとく「歌劇団」ですから、プロの舞台人として活躍する以上、芸を磨くのは当然のことです。というか、それが仕事です。舞台人ですから、私たちが仕事や勉強について評価・成績をつけられるのと同様、芸について批評・評価されるのも当然のことです。 「すべてが成績で決まる」という成績主義な劇団のスタンスは、究極の実力主義社会ともいえ、その中で生きるタカラジェンヌ達の精神的負荷は、想像するだに余りあります。

加えて、宝塚歌劇団のスタンスのうち、もう一つ特殊かつ残酷なところは、「タカラジェンヌとしての人生」そのものが売り物になっていることです。

ゆりかごから墓場まで」ではないですが、音楽学校に入学してから退団するまで、タカラジェンヌが歩む数年~十数年の道のりは、すべて観客に「見せる」ことが意識されています。その道のりを見ながら、タカラジェンヌが一人前の舞台人として成長していく過程を応援できることも、宝塚歌劇団の魅力の一つだと思います。

昨今、「トンデモ人事」と揶揄されるような出来事も多々ありました。 ファンの方々の心には、やりきれない思いや悲しみが訪れたことと思います。

ただ、とても残酷な言い方のようですが、そんな「トンデモ人事」も、タカラジェンヌとしての人生に箔をつけるためには、ある意味、必要不可欠な部分もあるのかもしれません。

「早期抜擢」「大器晩成」「苦労人」「悲劇の」・・・そんな枕詞がつくようなタカラジェンヌ人生であった方が、つかないよりは「オイシイ」のです。何らかのドラマがあった方が(良い意味でも悪い意味でも)、話題性は高くなります。

当然、ジェンヌ当人たちにとっては、そんなドラマ性や話題性のために自分の人生が左右されてしまうなんて、たまったもんじゃないと思います。なんと言ったって生身の人間ですから。悲しみもするし、傷つきもするし、怒りもするでしょう。

でも、タカラジェンヌとして生きるとは、そういうことなのです。 いわば自分の人生を切り売りするような、そんなお仕事なのです。 理不尽や不条理も織り込み済みのお仕事なのです。

それでも彼女たちは、自分たちのタカラジェンヌ人生は「清く、正しく、美しい」と言ってくれるのです。理不尽や不条理、周囲からの好意的あるいは批判的な評価の目に常にさらされながら、それでも、乙女の祈りのような言葉をモットーにしてくれるのです。

決して清くも、正しくも、美しくもない世界で、清く、正しく、美しい姿を見せようとしてくれている。 そんな姿に、私はパワーと生きる勇気を貰います。 そして、彼女たちはやっぱり「夢を売るフェアリー」なんだと思うのです。

どんなに辛くても、悲しくても、憤っても、舞台上では「清く、正しく、美しく」あろうとする。私は、そんな全てのタカラジェンヌに、頭の下がる思いでいっぱいです。

どうか、厳しく残酷な芸の道にあっても、少しでも心身ともに健やかに過ごしていかれますよう、心から祈りながら、また明日からも宝塚を愛し続けようと思います。

なぜ宝塚でJ-POPを聞くと「もにょる」のか 〜星組『ESTRELLAS〜星たち〜』感想

明けましておめでとうございましてから、はや1週間。 寒中お見舞い申しあげます。 だいすんでございます。

昨年は、『大混戦 キラキラタカラジェンヌ』などという大層な企画を始めた割には、花組月組の2組で力尽きた、おろかなだいすんでございます。 今年は、少なくとも週1ペースで更新していけたらなぁ・・・と思っております。 つれづれ、つらつら、駄文を重ねております本ブログですが、本年もご愛顧いただけますと嬉しいです。 どうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、2019年一発目の記事は、105周年の幕開けを飾っている星組公演について書きたいと思います。 といっても・・・お芝居の『霧深きエルベのほとり』ではなく、スーパー・レビュー『ESTRELLAS~星たち~』について、です。先日、初日があけて間もなくNHKでも放映されましたよね。 いろいろと異色ともいえる、このショーについて、以下、ネタバレを伴って述べていきたいと思います。

なぜ、宝塚の舞台でJ-POPを聴くと「もにょる」のか

これが、今回の記事の大きなテーマです。

 ※「もにょる」とは、違和感やわだかまり、こそばゆい感じのことを意味します。

もうご覧になった方はお分かりかと思うのですが、このショーで使われている楽曲のほとんどは、J-POPK-POPや洋楽もありますが)です。

SEKAI NO OWARI、MISHA、平井堅flumpoolORANGE RANGE などなど・・・

初観劇の時、次々と歌われるJ-POPの波に、私は「この場面もJ-POPかい!」とツッコまずにはいられませんでした。そして観劇語、心にはずっと「もにょもにょ」した感じが残っていました。

なぜ、宝塚の舞台でJ-POPを聴くと「もにょる」のだろう・・・。 自分なりに考えたすえ、私なりの理由にたどりつきました。

それは、宝塚の舞台に私が求めているのは「宝塚らしさ」なのだ、ということです。

宝塚らしさを求めて

これまで、ショーやお芝居でJ-POPが使われることは、よくありました。 104期生のラインダンスにも使われていましたし、かつてはトップスターが退団公演でアニソンを朗々と歌いあげていたこともありました。 ただ、私の記憶の及ぶ限りでは、使われているのはどれも1場面程度で、今回のようにほとんどの場面がJ-POPで占められていることは、皆無に等しいのではないかと思います。

「もにょる」気持ちを言葉にしていく中で浮かんだのが、「こんなにJ-POPが続くと、宝塚らしくない」という思いでした。

ただ、私は「宝塚のオリジナル曲でないから、宝塚らしくない」とは感じません。 各種の洋楽やクラシック、ディズニー音楽などは、宝塚のオリジナル曲ではなくても、宝塚らしいと感じて自然と受け入れることができることが(私は)多いからです。

J-POPは(個人差はあると思いますが)、日常生活の雰囲気を色濃くまとっているものだと思います。 CDや音楽番組などを通して能動的に聞く以外にも、テレビやラジオ、カラオケ・・・色々な場所で、聞くともなく聞いているそれらの曲が、夢の世界である宝塚で奏でられると、すこし「日常感」が混ざってしまう・・・それが、「もにょる」気持ちの一因になっているのかな、と思いました。

ただ、その日常感の混入も、1場面や2場面程度であれば、宝塚の夢の世界観の方が濃度が強いので、あまり感じずにいられると思います。 記憶に新しいところでは、花組公演『Sante!!~最高級ワインをあなたに~』の男役群舞の曲は、長渕剛さんの「乾杯」でしたが、(歌詞が歌われていなかったこともあいまってか)ピンポイントで奏でられていたため、違和感はあまり感じず、むしろ良いアクセントとして作用していたように思います。

何事も、過ぎたるは及ばざるがごとし・・・ 今回は、私にとっては少し、「日常感」の強いショーのように感じられました。

ただ、今回のショーでJ-POPを多用することの意義もあったとは思うのです。

冒頭にも書きましたが、このショーは早くもNHKで放映されています。 昨年末から、4K・8K放送開始のキャンペーンを通してテレビへの露出が少しずつ増えているところでもありますし、105周年という節目の年にまた新たなファンを開拓していくために、多くの人に耳なじみのある曲を用いて興味を持ってもらうきっかけ作りをした、とも言えます。

色々と書き連ねてきましたが、なんだかんだ言いつつ、私はこのショーが嫌いではありません。

男役群舞の「情熱大陸 with→Pia-no-jaC←」は興奮しますし、七海ひろきさんの笑顔と3番手羽根を観ると胸に迫るものがありますし、瀬央ゆりあさんが一人で銀橋をわたり、一人で大階段を降りてきたのを見た日にゃあ「今日まで、生きてきてよかった・・・」とも思いますし、礼真琴さんのどこまでも上手になっていく姿にはただひたすら平伏しますし、下級生が色々と頑張っている姿にもグッときますし、紅ゆずるさんと綺咲愛里さんのデュエットダンスは夢のように幸せな雰囲気が満ちていてウットリしますし・・・・・・(客席降りもいっぱいありますし・・・)

最終的には、日々の舞台を懸命につとめるタカラジェンヌの姿が何よりも「宝塚らしい」と思わせてくれるので、もにょったりウダウダ言ったりしながらも、今日も今日とて、たくさんのレーザービームを浴びつつ、星組公演を楽しもうと思います。

大混戦 キラキラタカラジェンヌ 2018 ~月組編~

せまる年の瀬、寄る年波…だいすんでございます。

先日、「今日から毎日1組ずつ、今年輝いていたと思ったタカラジェンヌを発表します!」 なぁんて調子よく宣言いたしておりましたが、はやくも2日目にして頓挫した哀れな女、それが、私でございます。

厚顔無恥なだいすんといたしましては、何食わぬ顔でシレッと月組編をはじめようと思います。

大混戦 キラキラタカラジェンヌ 2018 ~月組編~

現代の日本を舞台にした『カンパニー』、ストーリー性と個性的なキャラクターに富んだショー作品『BUDDY』という異色の2作品で幕を開けた今年の月組。 年末には大作エリザベート月組生のみで演じきり、トップ娘役・愛希れいかさんの見事な集大成となりました。

Twitterで私をフォローしてくださっている方はお気づきかもしれませんが、わたくし、珠城りょう大好き人間ですので、「最も輝いていたのはいつだって珠城りょう」状態なのですが・・・ 今回はたま様以外の生徒さんで選んでみようと思います。

今年、月組で起こった出来事の中でトピックとなるべき事柄はいくつかありますが、その中でも記憶に新しいのが『エリザベート宝塚大劇場公演における、美弥るりかさんの休演です。 休演に際し、ルキーニ役の月城かなとさんが皇帝・フランツを演じることになり、そのルキーニ役の代役を演じたのが、新人公演でも同役を演じた風間柚乃さんでした。

今回エリザベートを2度観劇したのですが、そのうちの1回は、この代役公演でした。 「風間柚乃、好演!!」との前評判は耳にしていたのですが、開演直前まで、なぜか観客の私はガンガンに緊張していました。 新人公演で演じているとはいっても、なんせ彼女は研5。狂気に満ちた役柄の難しさはさることながら、狂言回し的にお芝居を展開させていく立ち位置でもあるこの役は、狂気一辺倒ではなくクールさも持ち合わせていなくては務まりません。果たして本公演において、代役である彼女が他の出演者(上級生)と比べて遜色なく演じきることができるのか・・・。自分の目で見て確かめてみるまでは、なぜか不安でいっぱいでした。

開演のブザーが鳴り、バイオリンの不穏な響きが場内に響き渡ります。 上手を凝視する私の目に、ルキーニが飛び込んできました。 裁判官に皇后の死の秘密を語る彼女は、代役・風間柚乃ではなく、立派なルイジ・ルキーニでした。

彼女の舞台度胸は非常に強く、私が感じていた不安を一気に吹き飛ばしてくれるほどの演じっぷり。 「ほんまに研5やんな?」と心の中で何度も自問しながら、彼女の演技に釘付けになっていました。 さすがに2幕冒頭の写真撮影はアドリブなしで手堅く乗り切っていましたが、ルキーニとして空気を動かしている!と思う場面がたくさんありました。

フィナーレ。パレードで大階段を降りてくる彼女に万雷の拍手が降り注いだ瞬間は、今でも忘れることができません。

後日、タカラヅカニュースの新人公演トークを見直していると、彼女のクレバーさを改めて感じ入りました。 ルキーニという難役についてきちんと整理して捉えていて、それを言葉にして語ることができる。 役に入り込みつつも、その役を冷静に見つめる視点を持ち合わせていることは、役者にとって大切な姿勢だと感じます。 今後、彼女がその資質を活かして、立派な男役として成長していく姿が本当に楽しみでなりません。

そして・・・ もう1人、憧花ゆりのさん。 私は憧花さんのお芝居が本当に好きでした。どんなに短い台詞の一つにも心の動きを感じさせ、間の取り方も抜群。台詞の無い間の舞台上での時間と空間の使い方も見事で、そうした居方がその後の台詞を生きたものにする瞬間をたくさん見ました。 「芝居の月組」を組長として牽引してこられた憧花さん。彼女が厳しく優しく月組子に伝えてきたであろう思いは、これからの月組でもきっと生きていて、その芝居の中に彼女の面影をふっと感じることでしょう。

明日は、できれば明日こそは、ちゃんと雪組編を書きたいと思います。

大混戦 キラキラタカラジェンヌ 2018~花組編~

早いもので、今年も残すところ1週間をきりました。

大掃除は来年1年をかけてじっくりすることにしました、だいすんです。

 

さて、今年もあと5日ということで、今日から1日1組ずつ、だいすんが個人的に「このジェンヌさんが輝いてた!」と思う生徒を発表し、今年一年をふり返ってみようと思い立ちました。

 

題して 「大混戦 キラキラタカラジェンヌ2018」。

タイトルは最近発売されたばかりの、某N天堂の大人気ゲームからとりました。

 

…若干スベってる感がしなくもないですが、心を強く持って、今日は花組でございます。

 

 

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花組

2018年は、芹香斗亜さん宙組へ組替えとなり、柚香光さんが2番手に昇格して、お正月公演ポーの一族から幕開けとなりました。

近年の花組を見ていると、下級生~中堅男役の層がなんとも厚く、娘役も上級生から下級生に至るまで素敵に輝く方が多く、「組力」の強さを感じます。

 

そんな花組なので、「今年輝いていた!」という方は沢山いらっしゃるのですが、誰か一人を選ぶとすると、舞空瞳さんの輝きが、強く印象に残りました。

 

 

特に、『BEAUTIFUL GARDEN-百花繚乱-』の柚香光さんとのダンスシーン。

白いワンピースで可憐に踊る姿とその笑顔に、「正統派」っぽい娘役らしさを感じました。

 

娘役のウリどころって、いろいろあると思うんです。

歌や演技、ダンスなどの実力が充実している他にも、アイドルらしさや大人っぽさ、初々しさ、不思議ちゃんな雰囲気などなど…

そんな中で舞空さんは、清楚さや可憐さなど「THE・娘役」的な雰囲気が持ち味の方なのかな、という感じがしました。容貌も、甘すぎず大人びすぎす……少女と女性の中間といった面持ちで、そうしたところも魅力的に感じるのかもしれません。

 

『MESSIAH』では新人公演主演を果たし、全国ツアー公演『メランコリック・ジゴロ』でもヒロインを演じた彼女が、来年またどんな輝きを見せてくれるのか…

花組の下級生娘役には、音くり寿さん華優希さんもいらっしゃるので、彼女たちと切磋琢磨して成長されていくであろう姿が、非常に楽しみです。

 

 

さて…ほんとは各組一人ずつにしようかなぁと思っていたのですが、どうしてもこの人に触れずにはおられない方がいます。水美舞斗さんです。

 

水美舞斗さんといえば、言わずもがなスター揃いの95期生ですが、花組において、彼女は長らく、同期・柚香光さんの放つ「光」の影に隠れたような状態でした。

星組瀬央ゆりあさんも然りですが、今年も含むこの数年は、この影から抜け出ることができるか、彼女にとって非常に大切な年月だったのでは、と思います。

超路線派スターが同じ組の同期としていることって、誇らしい一面もあるかもしれませんが、想像する以上に苦しいことでもあると思うんです。

数年前には「同じ釜の飯を食った」ような存在が、新人公演で主演をし、スカイステージにも出演して色んな取材も受けて。本公演の出番や見せ場が増え、先にスチール写真が販売されて、バウホールで主演をして………

初舞台では一列に並んでラインダンスをしていたのに、いつしかその背中が遥か彼方に見えるように思えた時もあるのではないでしょうか。そこで、腐らず、弛まず、たくましく、努力を重ね続けた結果が、今年の水美舞斗さんの活躍につながったのだと思います。

 

バウホール公演Senhor CRUZEIRO!』の主演はもちろんのこと、ほんと『BEAUTIFUL GARDEN』の出番多すぎでしたからね。牛も蜂もアイドルも剣闘士も水美舞斗。ほぼほぼ水美舞斗。彼女の体力と筋力に野口先生は全幅の信頼を寄せているんだなと思うしかない活躍っぷりでした。

 

この先、水美さんがどんな道を歩むのか、未知な部分も多いですが、野口先生が彼女に寄せる信頼と同じくらい、私も水美さんの活躍を信じていきたいと思います。

 

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来年の花組は、2月からの大劇場公演『CASANOVA』でスタートします。

昨日、トップ娘役の仙名彩世さんはじめ、花野じゅりあさん桜咲彩花さんなど実力派上級生娘役など計6名の退団が発表され、また、若手ホープだった亜蓮冬馬さんも昨日付で退団されました。

去りゆく人を思う時は寂しくなるのが常ですが、特に「若手」と呼ばれる人が大階段を降りずに退団を決意したことに、なんとも言えない悲しさを感じます。

彼女たちのこれからの人生に幸多からんことを祈りながら、来年の花組も愛し続けたいと思います。

 

しんみりしながら・・・明日は月組編を書きたいと思います。

七海ひろきさんの退団によせて〜バス停とタカラジェンヌ〜

12月の足音が、ジングルベルの鈴の音とともに近づく今日この頃。 ご無沙汰しております。だいすんでございます。

はやいもので、今年も残すところあと1か月。 親戚の子どもが大きくなるのと月日の流れは、ほんとうに早いものです。

「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。」 俳聖・松尾芭蕉がのこした言葉のとおり、毎日は移ろう旅人のように通り過ぎてゆきます。

それは、宝塚歌劇団の生徒たちにとっても、同じこと。

7年にわたりトップ娘役を務めた愛希れいかさんもその任を終え、組長として月組を支えた憧花ゆりのさんも長いキャリアに終止符を打たれました。また、月組の若きスター・輝生かなでさんも、次回公演での退団を発表。

そして、星組七海ひろきさんも、この夢の世界から旅立つことを決意されました。

七海さんを含む星組退団者の発表があった、その日の夜、元星組真衣ひなのさんがブログを更新されました。

退団するきもち | 真衣ひなのオフィシャルブログ「ひなのまいく」Powered by Ameba

「退団するきもち」というタイトルで綴られたその記事には、真衣さんが退団を考え、悩み、そして決意するに至った気持ちについて、素直なことばで語られていました。

退団にまつわる心情をうかがい知ることって、なかなかないので、とても興味深く拝読しました。

その中で、特に心に残ったのが、彼女が在団中に感じていたという、ある感覚です。 それは、「バス停で並ぶ感覚」というもの。

宝塚とバス停・・・ 一見なんの関係もないように見えるこの2つの単語は、実は、厳しい夢の世界を歩むひとりの女性の思いを、如実にあらわすものでした。

先日(11月18日)の月組公演千秋楽で、元組長・憧花ゆりのさんがこんな挨拶を述べておられました。 「これからは、ひとりで歩んでいかねばなりません」と。

宝塚は、厳しい世界です。 同年代の少女がひとところに集まり、その技芸を競う。 その技量には成績がつけられ、それが舞台や写真の立ち位置にまで反映される。 たゆまぬ稽古と努力、めぐり合わせやタイミング・・・色々な要素が複雑に絡みあって、出世街道をのぼるスターがいて、一芸に秀でるスターもいて、若くして去って行くスターもいる。

私たちに夢をみせてくれる宝塚の世界は、少女たちが夢に憧れる場所でもあり、夢のもつ厳しさに向き合う場所でもあります。

そんな過酷ともいえる世界ですが、その反面、宝塚歌劇団は劇団員である生徒たちにとって安心できる場所でもあると思います。

怪我や体調不良などよほどのことが無い限りは、舞台に立つチャンスが保証されています。 所属する劇団があって、公演の機会と出演の機会が保証されていることは、舞台人としてとても恵まれた環境であるといえると思います。

憧花元組長がおっしゃっていた「ひとりで歩む決意」とは、そうした安全な夢の世界から、自由で厳しい世界へ踏み出す心境を表していたのかもしれません。

真衣さんの記事に戻ると、「バス停に並ぶ」というのは、安心できる場所・宝塚に居続けることを指しているのだと思います。 並んでいればいつかバスが来る。今来たバスには乗れなくても、待っていれば次のバスには乗れる。途中で列から離れる人がいれば、自分の順番は一つ前に進む。「待っていれば前に進める」という、非常に見通しのくっきりとした世界です。

公演のフィナーレで、タカラジェンヌは舞台上にズラリと立ち並びます。 センターにはトップスターが、その両脇にはトップ娘役と2番手がいて、それから上手下手に向かってそれぞれ学年順・序列順に並びます。 学年が上がれば(組内での立場が上がれば)、自分の立ち位置は次第にセンターに近づいていきます。 まるで、行列での立ち位置が次第に前へと進むように。

真衣さんの場合は、「違うのりものに乗ってみよう」。そんな気持ちが芽生え、退団を決められたそうです。

一度しかない自分の人生。 バス停に並ぶこと=宝塚に入ることを選んだ人生だったけれど、のりものは何もバスだけではないのです。 バイク、オートバイ、自転車、自家用車、ランニングしてもいいし、のんびりウォーキングしたっていい。 順路の決まったバスに乗ろうと思ってもいいし、バスを辞めて行き先は自分で決めてもいい。 人には人の、生き方がある。

今回、退団を決められた七海さんの胸には、どんな思いが去来してるのでしょうか。

タカラジェンヌを応援するファンは誰しも、自分の愛する生徒にはバスに乗ってほしいと思うものでしょう。生徒が技芸を磨きながらバス停で待つ日々を共に過ごすのですから。暖かい陽光がさす日にも、厳しい雨風が吹きすさぶ日にも、共に笑い、共に涙を流すのですから。 いろいろな時間や感情を共にしてきた間柄だからこそ、生徒がバスに乗らないと決意をする時には、さまざまな思いがこみ上げるものです。

「どうして」「なぜ」「もう少し待ってほしい」「今までよく頑張ったね」「これまで、本当にありがとう」

そのどれもが自然なこころの言葉でしょう。言葉にならない、胸をつく思いがあるでしょう。

大好きな生徒さんがバス停から離れるその日まで、千秋楽の最後の幕が降りるその瞬間まで、ともにバス停のそばで佇む我々は、いろいろな思いを抱えるのでしょう。

来年度には、105期生が初舞台を踏みます。 去る人がいれば、やって来る人がいる。 105期生の彼女たちはバス停に佇んで、どんな夢をみるのでしょうか。

えらくポエマー的な、とっちらかった記事になってしまいました。 ポエマーにならざるを得ないくらい、今回の退団発表に私自身、心が揺さぶられているのでしょうね。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

バッディのハニーハント~上田久美子先生講演会に参加して その2(終)~

ハロウィンから一夜明け、今日から11月。

ジャック・オ・ランタンは一晩で片付けられ、街は早くもクリスマス商戦に向けて動き出している雰囲気でムンムンです。

資本主義、ここに極まれり…!だいすんでございます。

 

さて、今日は後日更新と予告していた、上田久美子先生講演会の感想の続きを書いていこうと思います。もう1週間以上過ぎてしまったので、やや時期を逸している感はありますが、気にせず、臆さず、堂々と、やっていこうと思います。

 

 

前回の記事では、講演の第一部の内容を『BADDY』と絡めながら書いていました。ざっくりひと言でまとめると現代社会のこんなところがヤバイ」という話でした。あまりにも悪の排除にやっきになった結果、みんなの悪の基準だだ下がりだよね。しかも、本当にヤバイ悪、人類ピンチ系の悪には気づいてないよね、というような話でした。

※あまりにもフランクかつ適当すぎるまとめなので、詳しくは前回記事をご覧ください。

 

 

 

講演の第二部では、そんなヤバメな社会において演劇や文学、映画などの「物語」がどんな役割を果たすべきか、といったことが考察されていました。 

 

 

最近の「物語」は「アトラクション化している」と、上田先生は指摘していました。

アトラクション化した物語とは、『見ている間は終始、快感のツボを押されているよう』に楽しく、『ノリの良い音楽を聞いて体がついリズムを取ってしまうような生理的な楽しさ』を感じさせるもので、まるで遊園地のアトラクションに乗った後のような「楽しかった」という余韻をただただ感じさせる作品のことだそうです。飽きのこないように良く作られている反面、『文学的な物語構造はなくなり、ストーリーに込められたテーマを読み取らせることよりも、断片的な「萌え」というリビドー刺激剤をコラージュした理屈でなく生理で人を興奮させる』ようなものであると、講演では述べられていました*1

※ちなみに「リビドー」とは、人間の無意識にひそむ快楽を追求しちゃうエネルギーのことを言います。『エリザベート』でもおなじみオーストリア生まれの精神科医フロイトさんが名付けました。

私個人としては、娯楽とは読んで字のごとく「楽しむ」ための物なので、観ていて飽きないアトラクション化した作品=「ダメ!絶対!」とは思いません。

ただせっかくなら、受身的に自分のリビドーを刺激されるに任しておくよりは、作品に込められた意味を考えたり、自分で意味を見出したりしたいなぁとも思います。それは「生理的な楽しみ」とはまた違う、「発見する/考える 楽しみ」とも言えるかもしれません。

加えて、文化の発展や存続を考えると、アトラクション的な物語ばかりが世に出回ってしまうことの怖さも感じます。講演では、SNSの普及等により、万人受けするような作品がますます求められるようになり、また大衆の側も、第一部で述べたように『痛みや悪への耐性がなくなったこと』で、『人間の傷や「どうしようもなさ」を味わいとするような物語の深み』を理解しにくくなり、『快楽至上主義的』な作品を求める傾向があるのでは、と指摘されていました。

快楽的な刺激には遅かれ早かれ飽きや慣れがおとずれます。アトラクション化した作品の与えてくれる「生理的な楽しみ」もそう長くは続かず、いわゆる息の長い作品になりにくいかもしれません。次の時代に語り継がれ残される「文化」になる前に、消費され尽くしてしまう可能性が高いのです。

 

 

宝塚歌劇団は、エンタテイメント産業のひとつです。ショーやレビューなどはまさにアトラクションのようにくり広げられ、私もリビドーを刺激されながら日々観劇しております。ただ、宝塚歌劇団は来年105周年を迎えるエンタテインメントでもあります。大衆に楽しさをもたらしつつも、その独自の魅力から単なる娯楽・アトラクションとして消費され尽くすことなく存続してきた宝塚は、もはやひとつの大衆芸能文化と言えるかもしれません。

上田先生は、そんな文化を継承し発展させるべき座付き演出家の一人として、今の世の中に対して物語の果たす役割は、次の3つにあると言っています。

 

  • 共感の拡張

ここでいう共感とは『登場人物と一体化する』ことではなく、『自分の人類としての心を広げていく』ことだと述べられています。「分かる分かる!」とうなずくことだけが共感ではないのです。違う世界の価値観に触れることで心を広げていくこともまた共感なのです。ということだと思います。

『BADDY』では、例えば麗しの月城かなとさんが演じられたポッキー巡査に、この共感の拡張をみることができます。真面目でピュアホワイトだったポッキーは、バッディ達を「悪」だとみなしていました。物語の終盤、ひ弱だった彼は一転、自らの信念を貫く心の強さを見せて息絶えます。おそらく、全く「共感」できないバッディに捕まりアジトで過ごした日々の中で、これまでとは全く違う価値観の世界に触れたこと、「こんな考え方もあるんだ」「こんな人もいるんだ」と心の幅が広がったことが、彼の人間としての成長につながったのでしょう。

 

  • 「痛み」の肯定

物語の世界で『描かれた「痛み」に触れ、知っておく』と、現実の世界で自分にふりかかってきた「痛み」に対しても『あくまで一つの経験だと客観視』できる、と上田先生は述べています。

例えば、失恋の痛手に苦しむ時に、クールと王女の悲恋を思い浮かべられたら…。例えば、嫁と姑の板挟みにあう時に、『エリザベート』のフランツを思い浮かべられたら…。味わう苦しみの重さは変わりませんが、昔から人間が感じてきた感情なのだと、自分の苦しみを客観的に考えられることで、人は苦しみに意味を見出すことができるのです。

 

  • 「悪」の可視化

「悪」とお付き合いする一番良い方法は、その存在を認めることなのかもしれません。

人間は『本来は野生の生き物である』のに『悪の衝動に蓋をして不自然に心を押さえ込んだ状態で生きている』のでは、と上田先生は指摘します。物語の世界で「悪」を描き出すことは、そうして押さえ込んでいる衝動に『日を当て』『ホコリを叩』くことであるとも。

自分の中の悪を認めないことは、自分の人間性を否定することなのかもしれません。

怒るし、妬むし、怠けるし、ズルいし、酷いし、恩知らず。だって、にんげんだもの

物語の世界だからこそ、そうした人間の「悪」の部分を存分に描ききることができるし、そうして観る人の「悪」の天日干しができるのかもしれません。

『BADDY』をはじめ、今後「悪」(不倫とかいろいろ含む)を描いた数々の宝塚作品を観るときには、「悪の可視化だから、これを観るのは大事なことなの!」と自分や周りの人に弁明しながら、大手を振って観ようと思います。

 

 

長々と書いてしまいました。

ここまでお読みくださって、本当にありがとうございます。

今後はこうして演出家の先生の話をライブで聞ける機会はそうそう無いと思うので、備忘録的に、講演の内容をまとめたいと思い記事を書きました。講演を聞いていくつか疑問に思う点もあるにはあったのですが、今回はその点についてあまり述べていません。

主観ダダ混じりのレポートになったので、講演に参加された方には「ここちょっと違う!」などいろいろツッコミどころもあるかもしれません。また教えてください。

また次回からは、リビドーたれ流し状態の平常運転で、つれづれと観劇の思い出を書いていこうと思います。

*1:上記『』内は講演レジュメより引用。以下同様

私の心の中のバッディ ~上田久美子先生講演会に参加して その1~

朝夕に冬の訪れを感じる今日このごろ…

皆さま、いかがお過ごしでございましょうか。

だいすんでございます。

 

 

先日、京都大学にて開催された『第72回京都大学未来フォーラム』に参加してまいりました。

『BADDY』(抜粋)をその演出家とともに見るという超絶レア体験から開幕した、笑いあり、思索ありの、充実の1時間半でした。

 

今回は、私なりの解釈で、講演の内容を『BADDY』と関連づけながら述べていくことで、講演のエッセンスをお伝えできたらと思い、記事をしたためました。

私なりの理解ゆえの曲解誤解があるかと思いますが、「文章に起こす」「話す」という行為は、つねに言葉がひとり歩きしてしまうリスクをはらんでいます。

上田久美子先生 → だいすん → みなさまと、3者の伝言ゲームの末にお読みになる情報ですので、私の記事=上田先生が講演で述べたこと、ではございませんこと、ご承知おきのうえでお読みいただけますと幸いです。

長くなってしまったので、今回は講演の第1部に基づいたレポートとなっています。

なんだかいつになく言い訳がましい導入ですが、なんだか他人のふんどしで相撲をとってる感がするので、ちょっと弁明しておきたい気分になったのです。スミマセン。

 

 

ピースフルプラネット・地球。そこは、悪いことなど何一つ起こらない、平和なユートピア。喫煙や飲酒など、人間にとって害悪となることは禁じられ、喧嘩も戦争も、核戦争も受験戦争も核家族化も、問題となることはなにもない世界です。害悪の芽はグッディ捜査官が摘み取り、人々は天国に行くことだけを目指して生きています。

ピースフルプラネットは極端な例ですが、講演を聞いて、現代社会の象徴であると感じました。

経済が発展し日々の生活が安定するなかで、「悪い」ことは私たちの周りから次第に消え去ってきています。害悪の芽が現れると、たちまちSNSなどを介して現実社会のグッディ捜査官たちが批判・炎上させ、迅速に摘みとっていくのです。

こうしたピースフルプラネット化の傾向は良い面もありますが、一方で怖い面もあります。それは、あまりにもクリーンな社会であるが故に、そこで過ごす人たちの「悪」の基準がどんどんと下がっていってしまうことです。

『BADDY』では、食い逃げが逮捕案件になるのはもちろんのこと、犬も食わない夫婦喧嘩ですら、立ちどころにグッディ捜査官に制止されています。おそらくピースフルプラネットでは、戦争→殺人→強盗→…と悪を成敗していくごとに、悪の基準が「喧嘩」レベルまで下がっていったのでしょう。グッディ捜査官が「グッディ=善いもの」でいるためには、その反対となる「悪」の存在が必要不可欠です。世の中の悪事がひとつ残らず消えてしまったら、グッディは何に対して「善い」と言い切れるでしょうか。自分の「正しさ」を主張するのに誰かの「間違い」を指摘するのと同様、『善と悪』は抱き合わなくてはならない、ニコイチの存在なのです。

 

グッディ捜査官は、バッディ達が月から襲来すると、これぞ悪!とばかりに必死になって逮捕を試みます。そんなバッディが犯した悪事は、スイートハート様の歌によると「駐車違反」と「食い逃げ」。スケール小さすぎると言われてもやむを得ません。

そんなスケール小さめの悪を追うグッディ捜査官の背景で、クリーンを謳う女王様は、ビッグシアターバンクの頭取と何やら怪しげな取引を交わします。「地獄の沙汰も 天国の沙汰もお金次第なの」と言ってのける女王様には、汚職や企業との癒着・・・なにか巨悪の匂いをプンプンと感じます。ですが、グッディはその悪には気づかず、目の前にある小さな悪だけを必死になって成敗しようとするのです。

現代社会にも、これと似た構図があります。

社会のクリーン化が進み「悪」の基準が下がったこと、加えて、SNSなどの普及により世の中のグッディ捜査官たちが情報や意見を発信しやすくなったことにより、身の回りの小さな悪は「不謹慎」だとか「傷ついた」「私は傷ついていないが傷つく人もいるだろう」と徹底的に成敗されます。

しかし、一方で本当の悪や問題(講演では、サイバー空間での詐欺や盗聴盗撮、気候変動や経済問題などが例として挙げられていました)がやり玉に挙げられることはほとんどありません。テレビでも、そうした問題について論じるよりも、芸能界のスキャンダルの方が取り沙汰されている感があります。

また私たち市民も、大きな問題はどこか対岸の火事というか、あまりにも怖すぎる問題なのでリアリティがないのか、考えないようにしているのか、どこかのお偉いさんが考えてくれると思っているのか、日々の生活が大変でそれどころではないのか・・・あまり非難することもなく、臭いものには蓋をして、怖いものには目を閉じて、身近な悪叩きに終始してしまっているような気もします。

 

『BADDY』では、幸いにも(?)バッディ達大悪党が大挙して押し寄せてくれて、ピースフルプラネットの住人に革命的な意識の変化がおとずれました。

誰かを憎いと思えるから、誰かを愛する気持ちがよりくっきりと浮かびあがること。時として憎むべき相手を愛してしまうこともあること。許されざる恋の苦悩があること。裏切りを知り自分の中の怒りと愛に気づくこと。

そのどれもが、無菌室状態のピースフルプラネットでは知り得なかったものでした。痛みを伴うリアルな「悪」との出会いが無くては、憎しみや怒りなど、自分の内に秘めた「悪い感情」に気づくこともなかったでしょう。自分の中の悪を認識してはじめて、グッディは「生きている」と感じ、生々しい人間としての生を実感できたのです。

 

 

 

では、私たちの現実社会にバッディは現れてくれるでしょうか?

望遠鏡で月を眺めていたら、宇宙服に身を包んだ彼が来てくれるでしょうか?

私たちは私たちの「バッディ」を、自分で見つけ出さなくてはいけないかもしれません。

 

 

 

明日(以降)は、第2部に基づいたレポートがかけたらいいなと思います。